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2025年3月17日(月)

2025とくほう・特報

シベリア強制抑留被害

侵略戦争と日本軍の本質

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(写真)東京・新宿にある平和祈念展示資料館で、収容所の模型を見ながら体験を語る西倉さん

 アジア・太平洋戦争で、ソ連のスターリンが日本の降伏を前後して、満州(中国東北部)や朝鮮北部にいた日本軍兵士ら60万人(推定)を捕虜にして強制労働を課し、6万人ともいわれる人命を奪ったシベリア強制抑留被害。2010年に「シベリア特措法」が制定され、元抑留者には特別給付金を支給する一方、国籍条項により、植民地だった北朝鮮・韓国、台湾出身者は救済されないままです。戦後80年、侵略戦争を担った日本軍の本質、強制抑留の真実を考えます。(阿部活士)

 1931年9月18日、天皇制政府は、関東軍がでっちあげた鉄道爆破事件(柳条湖事件)を口実に、中国侵略を開始。「満州事変」と称され、45年8月までの15年にわたる侵略戦争のはじまりでした。32年3月、中国を植民地とするため、日本軍部は中国の東北部にかいらい国家「満州国」をつくって軍事支配下におきます。

 戦前、成人男性は原則全員徴兵され、中国東北部だけでも最大で70万人の兵を置きました。

 45年1月、19歳のとき朝鮮北部にある連隊に入隊した西倉勝さん(99)は、証言します。

 「6月になると、『特別演習』の名でソ連国境沿いの山間部でテントで過ごしながら、上官から『対ソ戦に備えて“タコつぼ”を掘れ。君たちの墓場だ』と命じられました」

 “タコつぼ”とは、道に穴を掘り、爆弾を持って身を隠した穴です。ソ連の戦車が通ったら爆弾ごと自爆する人命無視の作戦です。

 しかし、ソ連軍と出くわす前、西倉さんは「敵前上陸するから下山を」と命じられました。8月18日でした。「まさか、日本が降伏したとは思わなかった。武装解除される際、日本の戦車の何倍も大きなソ連の戦車や、一度に70発連射できる自動小銃を軽く肩にかけているソ連兵を見て、“戦力の格差”を痛感しました」

“生きて帰る”だけ考えた 戦争起こしてはいけない

 ソ連はどのようにして日本兵をシベリアに強制抑留したのか。

 西倉さんは武装解除された後に、“ウラジオストクまで行けば日本に帰される”と言われて行軍。多くの日本兵とともに家畜同然に貨車に乗せられました。磁石を持っていた兵士の「だまされた。シベリアだ」と落胆した声が今も耳に残っているといいます。着いたのが、シベリアのコムソモリスク収容所(通称・ラーゲル)でした。

 西倉さんはラーゲルに3年いました。どんな待遇だったのか。

 「歩哨が門に立っていて逃げられない格子なき牢獄(ろうごく)でした。つらかったのは強制労働。なかでも、真冬に水道管を埋めるため、カチンコチンに凍った土の穴掘りを命じられたことです。労働に応じた食事は、黒パンと馬のエサになるコーリャンやアワ。飢えに苦しみ、野にあるタンポポまで煮て食べました。“シラカバの肥やしになるまい”と生きて帰ることだけを考えました」

下級兵士の闘争

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(写真)父・四國五郎からシベリア抑留体験を聞かされたと話す・四國光さん

 西倉さんと同じような体験を詳細な絵と文章で残した人がいます。戦後広島で峠三吉らとともに活動し、反戦平和の詩画人として活躍した四國五郎氏(2014年没)です。息子の四國光さんは、「家でほとんど戦場の話をしないおやじが、繰り返し話したのは軍隊内の上官による私的制裁だった」といいます。

 「初年兵を『個』のない肉体だけの駒に均一化させるため、壮絶なリンチが繰り返された」といいます。そして敗戦後シベリアに抑留されます。

 光さんは追体験するため、シベリア抑留者支援・記録センター代表の有光健さんらとともに、18年3月、零下15~20度のシベリアの地に立ちました。「おやじは鉄道敷設工事で極寒のなか森林を伐採する強制労働などに耐え、生き延びました」

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(写真)戦後広島で反戦平和の詩画人として活動した四國五郎作の「大日本帝国兵馬俑」(制作年度不明)

 同時に、「収容所内で亡くなった多くは下級兵士でした。下級兵士が行った民主化のたたかいにもっと光があたってほしい」と強調します。

 「戦争は終わっているのに、上官は自分たちの特権を保持するために、収容所内でも日本軍の規律を強い、従わない下級兵士への私的制裁が続けられました。別の収容所では上官により“食べられた”下級兵士もいたといいます。民主運動は、下級兵士が生き延びるための反軍闘争として始まりました」

国立の資料館を

 降伏とシベリア強制抑留は、戦争と敗戦国兵士の捕虜の人道的処遇という今日的課題に通じます。

 「無念にもシベリアの地で亡くなった仲間が『もっと証言しろ』と言っている気がします」と話す西倉さん。現在、東京・新宿にある平和祈念展示資料館で抑留体験の語り部活動をしています。

 西倉さんは強調します。「戦争は絶対に起こしてはいけない。話し合いで解決する世の中、世界であってほしい。日本政府は世界に向かって『戦争はやめよ』と話し合う止め役になってほしい」

 シベリア特措法については「国籍条項はなくしてほしい。台湾や朝鮮の人たちを戦場に引っ張っていった責任が日本政府にはある」と語ります。

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(写真)有光さん

 抑留者支援・記録センター代表の有光さんは「戦争の準備には巨額の税金を投入しながら、かつての戦争の後始末には目をつぶり、被害を受けた自国民や元日本国民(旧植民地出身者)を切り捨て続ける国の姿勢には深い失望と疑問がある」と話します。抑留の実態解明を進めるうえで日本とロシアをはじめ関係国政府が出資し、民間研究者も参加する共同の調査機関の設置を提案。その成果を次世代が学び、継承する国立の資料館設置などを提案しています。


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